実はイタリア中に、あるアメリカ人の少年の名前がついた公園や保育園、学校が沢山あります。
その少年の名前はニコラス・グリーン。
今回はこの少年を襲った悲劇とイタリア人の意識を大きく変えた彼の両親の驚くべき決断と感動の物語についてご紹介したいと思います。
悲劇の日
1994年9月29日。シチリアで強盗犯達が運転する一台の車がニコラスの父親レジナルドが運転する車を宝石商の車と間違え、車に向かって発砲しました。
不運な事に、発砲した玉は後部座席で眠っていたニコラスの頭に当たり、彼はすぐにメッシーナの神経外科病院に運ばれます。
しかし医師達の懸命の治療も虚しく、その数日後の10月1日にニコラスは息を引き取りました。
お気に入りの国イタリアで4度目のバカンスを楽しむためにアメリカからやってきたグリーン家を襲ったこの突然の悲劇、わずか7歳だったニコラスの死を伝えるニュースはイタリア中に大きなショックを与えました。
そして、その悲劇に続くニコラスの両親が下した決断によって、イタリア中がこのアメリカ人家族に注目し大きな感銘を受ける事になります。
彼らは最愛の息子の死を知ったそのすぐ後に、息子の臓器提供を承認したのです。
そしてこの決断により7人のイタリア人が救われることになります。
ニコラスに救われた7人のイタリア人
当時、他人の臓器を別の人に移植するというのはイタリアではまだ広く認知されていませんでした。
反対にアメリカではもうすでに広く受け入れられており、ニコラスの両親は、息子の死を告げられた後、その健康であった息子の体はきっと他の苦しんでいる人たちの役に立つと考えたのです。
幼い我が子の命を無残に奪った国をニコラスの両親は憎むこともなく、さらに我が子の体を名前も知らないイタリア人を救うために提供したというニュースは世界中を駆け巡り、人々を感動させ、惜しみない賞賛の声が両親に送られました。
ニコラスの臓器は直ぐに7人のイタリア人に移植され、彼らの人生が大きく変わりました。その手術を受けたイタリア人の中には長い闘病に苦しみ、死を宣告された人たちもいました。
ニコラスの両親の決断からイタリアの「臓器移植」に対する意識が大きく変わり、なんと臓器提供希望者が一年で4倍以上増えたと言われています。それにより、多くの病気に苦しむ人たちに健康な臓器が移植され、劇的に改善するきっかけとなりました。
数々のテレビ番組がニコラスに救われた7人の術後の人生を紹介し、ニコラスの両親の決断がいかに大きな意味を持っていたのかをイタリア人は再確認する事なります。
・シルヴィア・チョンピ 膵臓移植成功
・ドメニカ・ガレッタ 角膜移植成功し視力を取り戻す。
・マリア・ピア・ベタラ 肝臓移植成功。
(後に結婚し息子にニコラスと名前をつける。)
・アンナ・マリア・ディ・チェリエ 腎臓移植成功
・ティーノ・モッタ 腎臓移植成功
・フランチェスコ・モンデッロ 角膜移植成功し視力を取り戻す。
・アンドレア・モンジャルド 心臓移植に成功。
(当時15歳で歩くことも困難であったが、サッカーができる様になるまで回復、成人し仕事に就き普通の生活を送りながら移植23年後に亡くなる。)
イタリア大統領はこのニコラスの両親に対して「その人間らしさと愛情、寛容的で品格のある行為に」対して名誉市民メダルを贈りました。
ニコラス少年の悲劇から、イタリア国民の間に「臓器移植」に対する深い思慮に満ちた意識が生まれました。
ニコラスの名前がイタリア国民の記憶に深く刻まれた事を証明するかの様に、今日、イタリア全国にニコラスに捧げられた公園や公共施設がたくさんあります。
23の公園、29の学校などの公共施設、29の道路にニコラスの名前がついています。
そしてフィレンツェにもアルノ川沿いの広々としたカッシーネ公園の中に「ニコラス・グリーン公園」があります。
ニコラスの両親はインタビューの中でこう付け加えました。
「ニコラスはこの国を愛していました。あの子は壮大な建築物や英雄が出てくるお話が大好きだった。ニコラスの死後、彼の事を知らないはずの小さな子供たちまで彼の名前を知っているんです。彼が好きだった国(イタリア)は何百倍もの深い愛情を持って彼を愛し返してくれていると感じるのです。」