【カッポンチーナ通りと19世紀末のイタリア二大スターの苦悩に満ちたロマンス】
前回のフィレンツェの散歩道①ではボッカッチョやミケランジェロ、セッティニャーノの彫刻家たちのお話をご紹介しました。
今回はフィレンツェ近郊で最も美しい庭園の一つと言われるガンべライア庭園と、静かなカッポンチーナ通りを散歩しながら1900年代初頭イタリアで最も話題になった2人のスターの恋愛物語をご紹介したいと思います。
イタリアで最も美しい庭園
セッティニャーノの中心からサン・ロマーノ通りを通ってロッセッリーノ通りを歩くこと10分、ガンべライア邸に到着します。
正面は非常に地味な入り口で、インターホンを押して鉄の扉を開けてもらって中に入ります。(庭園/宮殿の拝観料はそれぞれ20ユーロ: 2021年4月現在)
ガンべライア邸は14世紀サン・マルティーノのベネデクト派の修道女達の修道院でした。そしてルネサンス期ベルナルド、アントニオ・ロッセッリーノ兄弟が住み、1718年にカッポーニ家が購入して宮殿は現在の形になります。
第二次世界大戦中に宮殿、庭園共に大きな損壊を受けましたが、その後の度重なる修繕を受けて宮殿は再び元の美しさを取り戻しました。
このガンべライアはなんといってもこの庭園の美しさが有名で、フィレンツェの街、トスカーナの丘の風景をパノラマで一望できるロケーションを含めイタリアで最も美しい庭園の一つとも言われています。
宮殿の右側には円形や長方形など整備された6つの池、半円形の池を囲む様に入り口がいくつもある劇場の様な形の緑の植木など視覚的に計算され尽くした優美な庭園デザインとなっています。
何気なく置かれた二つの椅子とテーブル、そこに座ると庭園側からガンべライアのお屋敷とトスカーナの丘陵を見渡せる様になっています。
その他に庭園にはレモンを冬の間保管するレモン温室に続く藤棚の階段、外に出された柑橘コレクションや牡丹と薔薇が植えられています。
宮殿後ろ側には200メートル以上の長さに伸びる「ボーリング-グリーン」と呼ばれる緑の散歩道の突き当たりには「ニンフェオ」と呼ばれる海綿で作られた神殿があり、その中に2頭のライオンを左右に連れたバッカス(?)が立っています。
ガンべライア邸は宿泊施設、イベント会場(結婚式やプライベートパーティーなど)としても貸し出されているそうです。
ミケランジェロ一家が暮らした館
小高いセッティニャーノの街から降りてくる際は静かな雰囲気のあるカッポンチーナ通りを下ります。その途中ブオナローティ・シモーニ通りと交差します。
ブオナローティ・シモーニ(正式な名前はルドヴィーコ・ディ・レオナルド・ディ・ブオナローティ・シモーニ)とはミケランジェロの父親の名前で、左手にミケランジェロが幼少時代過ごしたと言われるミケランジェロ邸があります。
なかなか雰囲気のある格子にはグロテスク風な装飾がついていて、その入り口の横にはこの屋敷の歴史を誇るように「ミケランジェロの家」と書かれています。
ミケランジェロの父親はミケランジェロが生まれてすぐにこのセッティニャーノの家に家族で引っ越してきました。
ここで過ごしていた時期にミケランジェロはスカルペッリーノの乳母に預けられ、彫刻家になるよう啓示を受けたと語っています。
ミケランジェロの家族は代々、公務員職にあたる仕事をしている人たちばかりで、肉体労働を伴う「芸術家」になった人はミケランジェロの前には誰もいませんでした。その為ミケランジェロの父親ルドヴィコ(父親はカプレーゼとキウージの執政官)は、彫刻に対して関心を示し始めた息子に対し考えを変えさせようとあれこれ手を尽くしますが、結局は頑固な息子に根負けしてしまったようです。
しかし、そんな父親に対して、ミケランジェロは生涯変わらぬ愛情を抱き、彫刻家として成功した後は父親から送られてくる経済的援助の要求に対して出来るだけ応えようとし、晩年期ローマにいたミケランジェロがフィレンツェのジョルジョ・ヴァザーリ宛に書いた手紙の中にはこう書いています。
「ジョルジョ殿、我が友よ、…私も貴方達が望むようにフィレンツェに戻り、この私の弱々しい骨を父のそれのそばに埋めてほしいと思っているのです。。。」
そして彼の死後、その願いは叶えられ、彼の遺体はサン・ピエトロ寺院に埋葬を考えていたローマ市民の意向に反して、甥のリオナルドによって内密にフィレンツェに送られて、父親が埋葬されたサンタ・クローチェ教会に埋葬されました。
大詩人と大女優のリアル愛憎劇
カッポンチーナ通りをそのまま下り続けると右側75番地に頑丈な入り口が現れます。
屋敷自体を見ることは出来ませんが、この入り口の中にかつてガブリエレ・ダンヌンツィオが住んでいたそうです。
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ダンヌンツィオと言うとイタリア近代史で最も有名な人物の1人であり、イタリアの至る所に彼の名前がついた通りや広場があります。
イタリアを代表する詩人、劇作家、そして何よりもイタリア人が彼を英雄視する様になったのは、第一次世界大戦中における一連の彼の活躍でした(プロパガンダを目的としたウィーン上空飛行やフューメのイタリア併合を目的とした占拠劇など)。
そのダンヌンツィオですが、実生活はかなり癖がある人物だった様で、生涯女性関係のスキャンダルが絶えず、浪費癖により借金取りから逃げるためにパリに移住したりと、彼の人生は波乱万丈だったようです。
このカッポンチーナ通りにはもう1人の有名人、近代舞台劇の最大の女優と言われたエレオノーラ•ドゥーゼが通りを挟んで住んでいました。
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その屋敷が今でも残されており、この2人の愛憎劇は当時のイタリアで大変な話題になったそうです。
1894年から始まったと言われるこの2人の関係ですが、当時エレオノーラはもう既に「ディヴィーナ(神聖な)」というあだ名で呼ばれ、ヨーロッパを始め、海を渡ってアメリカでも有名で押しも押されもせぬ世界的な女優(当時36歳)でした。
一方5歳年下のガブリエレ・ダヌンツィオは、作家として頭角を表し始めたばかりの若い青年でした。
その彼が、エレオノーラに近づいたのは彼女の名声を使って劇作家としての成功を掴む為だったと言われており、実際この2人の関係は愛人関係から始まり、劇作家と主役女優と発展して彼らの前衛的な作品は話題を集めることとなります。
このカッポンチーナ通りに2人が向かい合わせの別々の屋敷に住んでいた頃は、派手に浪費するダンヌンツィオにエレオノーラは度々金銭的な援助をしており、彼の度重なる他の女性との裏切り行為にも目を瞑っていました。
さらにダンヌンツィオは1900年に小説「イル・フォーコ(炎)」を出版し、主役の女優が年下の若者と恋に落ち、どんなに酷く扱われてもそれに耐えると言う様なまるで2人の関係が赤裸々に語られた内容が物議を醸し出します。
ダンヌンツィオは公然とこの本はエレオノーラ・ドゥーゼからインスピレーションを受けたと発表したという事ですから、本当に最悪な男だったのが分かります。。。
この様な屈辱的な行為に対しても、彼女は耐え続けマゾヒスト的(?)にダンヌンツィオの作品を演じ続けます。
しかし、ダヌンツィオの行為はさらにエスカレートし、彼らの主要な作品である「死都」や「イオリオの娘」などの作品にエレオノーラではなく他の若い女優や、なんとエレオノーラの仲の良かった女優を起用した事などにより、エレオノーラは終にダヌンツィオとの関係に終止符を打つ事を決めます。
現在は、彼女の映像がほとんど残っていないこともあり(彼女の映像は唯一1916年に出演した映画「CENERE(灰)」しか残っていない)、エレオノーラ・ドゥーゼという大女優がいた事は若い世代で知っている人はとても少ないのですが、一方ガブリエレ・ダヌンツィオはというと、イタリアの学校の教科書などでイタリアを代表する「詩人/英雄」として紹介されているので、彼の名声は普遍的なものとなりつつあります。
フィレンツェは彼らの愛憎劇と共に斬新な舞台劇が多く生みだされたところであり、その彼らの文化的な功績を讃えて彼らの名前が二つの通りに残されました。
しかしこの二つの通りが交差する場所を通る度に、私はエレオノーラが最後に残したダヌンツィオに対する言葉を思い出してなんとも切なくなってしまうのです。
≪Gli perdono di avermi sfruttata, rovinata, umiliata. Gli perdono tutto, perché ho amato!»
「私は私を利用し、人生を台無しにし、屈辱を与えた彼を許します。彼の全てを許します。なぜなら私は彼を愛したのだから!」